![]() 昭和58年3月 上空から | |
『異業種の集まった総合団地を作ろう』 昭和49〜50年は、組合の芽生えとも言える星雲時代。 有志が集い、組合の設立を目指して会合を重ねる。 ここから「協同組合徳島総合流通センター」建設までの長い道のりが始まった。 | ![]() 昭和56年8月 起工式 |
『ジプシー状態つづく』 昭和51年3月、協同組合徳島総合流通センターを設立。 団地建設の候補地を決定したが、候補地が「農業振興地」のため、その解除の難しさを味わう。定期陳情が始まる。 定期陳情はこの後、週2回に、また関係部課50近くにも陳情。 この時の組合には会議場がなく「ジプシー状態で」転々と。 | |
『背広を新調して』 昭和51年10月、取引銀行が決定。組合の運営資金を得る。 取引銀行を決める際に「ジャンパー姿だと相手にしてくれないかもしれない。背広を新調して会いに行こう」という話も。 | ![]() |
『最初は、県市主導型だったが...』 用地買収に関しては組合独自では無理と判断し、土地開発公社に頼む。さらに、県市が主導して総合開発計画を進める旨発表され、その計画を待つことに。 これを頼りに2年が過ぎ、団地建設の空白期間となる。 | ![]() |
『先進団地を視察』 昭和52年には、農地転用で苦労した先進団地を視察。 視察旅行はタクシーを使わず歩くなど、かなりの節約。さらに1日に3箇所視察するなどの強行スケジュール。 その努力が団地建設にも生かされた。 | |
『どしゃ降りの雨の中、感謝』 地元との初接触は昭和52年9月。 関係地主会も開催され、マスタープラン確定。進入道路の用地買収交渉始まる。 農振地解除のため、土地譲渡同意書、農用地域除外同意書の署名をもらい始める。11月晩秋の大雨警報下どしゃ降りの中、大勢の方の判をいただく。有り難く、うれしい限り。 | ![]() |
『組合も地元も熱意を持って』 昭和53年、進入道路のコースは難航するが、団地内地主の交渉は順調。地主全員の同意書を得て万歳!組合に力入る。地元も熱意を持って県に陳情。 事業計画に向け、地元3団体(土地改良区、農協、漁協)と交渉。各役員宅へ夜間訪問も。そのかいあって10月、調印。 | ![]() |
『組合直接買収方式へ』 組合員の数が少なく組合資金が窮迫、事務所も立ち退き申し渡され苦しむ。その中でも事業計画は軌道に。 昭和54年4月、用地買収方式を「組合直接買収方式」に変更。公社や県市に頼るのではなく、組合独自の力ですすめることを決める。用地買収はゼネコンと共同作戦。これ以降、具体的テーマを持って先進団地を視察する。 | |
『農振解除、大苦戦』 昭和54年8月、農振解除・農地転用申請を提出するが、「近郊農地は大事にしないといけない」と許可されず。それでも勇気を持って農政局を訪問。 昭和55年1月からは、中四国農政局(岡山)まで月1回以上の陳情。6月、ついに農地転用内認可。 |
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『必死の用地買収』 土地価格交渉に入り、用地買収本格化。毎日、朝昼晩の地元参りがつづく。必要な2/3買収を目指す。 昭和55年11月、締切り2日前に、2/3用地買収完了。国土法の制限ぎりぎりで通過。 ★用地買収にて 土地は商品ではない。農家にとっては娘を嫁にやるようなもの。土地への愛着は強いと実感。 | ![]() |
『そして起工式へ』 昭和56年、開発同意のため近隣をまわる。容易に考えていたが、かなり難航。最後数件の用地買収も非常に難航。 8月、徳島県からの承認出る。農地転用許可、開発行為許可。そして用地もすべて購入完了。 8月22日、待望の起工式。起工まで7年余りをかけた手作りの団地建設が始まった。 | ![]() |
『ついにオープン!』 昭和57〜59年にかけての造成・建築工事は順調にすすむ。流通会館や共同倉庫、各組合員社屋など次々と完成。 昭和57年5月には組合のシンボルマークも決定。59年3月オープン!! | |
![]() 昭和59年3月 |